結婚してから、約5か月。まだまだ新婚生活がはじまったばかりだね、と言われたりします。実際に結婚をしてみて感じたことを、ここに書き記しておこうと思います。
実は、結婚をしてから今まで、未だ結婚をしたという実感はありません。それまで長く同棲していたから、ということもなく、妻と(この言い方も未だ慣れませんが)暮らしだしたのも、せいぜい籍を入れる3か月くらい前からです。
では、なぜそのような実感がないのか。
いろいろな要因があるとは思いますが、おそらく、自分の価値観と相手の価値観を重ね合わせることがうまくいったからだ、と僕は考えます。それは僕が長く仕事上で行ってきた作業で、だから自分にはそのような下地ができていたのだろう、ということです。
僕は今34歳ですが、自分の価値観や自己同一性はすでに確立されています。それは、新しい刺激を受けたり学んだりすることで成長することはあっても、今後大きく変化することはないだろうと思います。思えば、僕は昔から自意識の強い人間で、早い段階で自分の価値観や自己同一性を確かなものとしていました。良くも悪くも、学生の頃から自分の趣味嗜好の方向性も、大事なものの定義も、モラルや礼節に対する考え方も、大きく変わることはありませんでした。もちろん、自分の未熟さは恥じていますが、それは学ぶこと、経験することで解決できる範囲の過ちだったと思っています。
そんなある種の頑固さを持っているからなのか、人間的に未熟だからか、よく、「結婚に向かない」という評価を得ていました。それらは納得できる理由で、自分でもそう考えていたのだから、それはもう筋金入りです。
ある日、懇意にしていた保険代理店の社長と結婚観の話になったとき、このようなことを言われました。
既婚者は、未婚の人間よりも評価されることが多々ある。”結婚している”というだけで評価されるのは何故か。
それは、結婚とは大なり小なり別々の価値観を持つ人間同士が、その価値観をあわせて新しい価値観を作っていく作業だからだ。
だから、結婚を経験している人間は、(たとえ結果失敗したとしても)その努力や、難しさを知っている人間なのだ。
なるほど、と思いました。ユニークで、とても説得力のある解釈です。寺山修司の『家出のすすめ』をなぞれば、家は『”在る”ものではなく”成る”もの』です。
これは、価値観とは他の人のものを借りるだけでは成立しない、ということに他なりません。結婚も家出も、新天地に新しい大事なものを作りにいく、という行為なのだとしたら、結婚とは”幸せな家出”と言えるでしょう。(家出は、結果はどうあれ出発点は幸せであってはいけない、と僕は考えます。)
結婚した、というとなにやら結末のように感じますが、家出をした、というのであれば出発のように感じます。なるほど、自分は家出をしたのか。と考えると結婚生活も通常とは別のわくわく感を感じるというものです。
さて、物語のはじまりはいつでもわくわくするものです。これが決して退屈なおはなしにならないよう、努力しなければなりませんね。